昭和57年1月6日   朝の御理解

                    
x御理解90節                        「上から下へ流すのは容易いが下から上へ流すのはむつかしい道を開くと云うても匹夫の俗人から開くのぢゃからものがむつかしうて暇が要いる神のおかけで開かせて貰うのぞたとへ一時はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」


 今日から寒修行が始まりました。朝眠たい事も冷たい寒い事も修行と思うたら有難い、元気が出る。お道の信心は苦労を修行と頂く事なんです。ですからそれが本当に修行と分かったら今日の御理解ぢゃないけども容易う、下から上へ水を流すほどに難しいと言うのは修行を苦労と思うから難しいのです。
 修行を苦労と思う。だからなかなかそれを修行と悟らせて頂くまで難しいのです。これは苦労ぢゃない。神様が氏子に力を下さろう、お徳を下さろうとする神愛の現われだ。為にはこの修行を有難く受けていかなけれはならんと言う事が分かったら、苦労ちゃ難しい事はない、むしろ有難い。
 そこを分からずにね。修行を神様が求められる修行。例えばこの寒修行なんかは私共が求めてする修行なんですけどもね。日常いろんな中に様々な問題があったり、難儀を感ずる事がありますけれども、それを言うならば修行として受けれはね。楽しうなってくるですね。その思い方が本当に出ける、思い方と言うか本当の事が分かると言う事ですね。
 皆はその尊い修行を修行と受け頂ききらんで苦労と思うとるからね。いつも、くうーっとした顔ばしとかんならんね。どんな修行の時にもですね。もうそれこそ何と言うですか。それこそ後光の射すような返って修行をさせて頂きたいですね。それにはね。いわば、これは私に言わすると、大体苦労とか難儀と言うものはないんだと、あるのは一切神愛だとね。
 そう言う一つの悟りの心が開けてくるまでが、やはり難しいですね。そのなら悟りと言うのは、本気で教えを守り教えを行じなければ、その心は翻然として開けるものですからね。ちょっと開いた位で悟りきるもんぢゃないです。
 結局日々合楽理念の実験実証に本気で取り組ませてもらわないと、いわば、何時までも一生がこの世は苦の世、苦の世界で終わってしまいますね。けどもそこの悟りがちょっと開けますとですね。言うならば修行として頂くのですから有難い事ばっかりになって来るのですよ。事実そこに力もつく、いわゆるお徳も受けられると言う事になるのです。
 今朝私は寒修行の事をお願いさせて頂いとりましたらz『大きな筆、こんな大きな筆に墨が少しばかりしかないとにちょこっとばっかり先につけてある』ところを。皆が大きなおかげを頂きたいとこう思う。例えば大きな字が書きたいと思う。それに墨はほんのちょこっとしかないもんだから、ほんの先の方だけにしかついとらんね。
 私、墨と言う事は苦労すると言うかね、苦労だからそれを私は苦労をするのぢゃない修行をすると言うふうに聞いてもらってるわけですね。だからそこにまあ主客転倒と言うですかね。反対の事になってしまう。もう間違いなし神様があなたに求め給う修行であるのにもかかわらず、それを修行と思い切らずに苦労と思うとるから、いつまで経っても苦労からね。言うならば外れる事は出来ない。
 昨日一昨日私はテレビを見よったら、あのある主人公のセリフの中に人間は一生トラブルの中にあると言ってますね。様々な問題の中にあるんだと。だからそれを愛しておったら、それを乗り越え乗り越えしていくのが、まあよい生き方だと言う意味の事を若い人に言うて聞かせておるんですよね。
 だから私は思うた。確かにそうなんだ。この世は確かにお釈迦様が仰っしゃるように。苦の世だ苦の世界なのだ。けれども金光大神はそこん所をですね。もう修行として受け抜かれた。しかも実意丁寧に受け抜かれた。だから苦労ぢゃない。又事実それを修行として受ける時にあれもおかげであった。これもおかげであったと分かる事になれば本当の信者ぢゃと仰っしゃように。本当の信者にならせて頂くからもう絶対本当のおかげを頂かれる。
 人間の幸福の条件が足ろうてくる。大きなおかげを頂きたい。そして苦労はちょこっとばかり、修行ちょこっとばかり、これでは大きな字を書こうと思っても書けないでしょう。
 次に頂いたのはあのz『納豆』を御心眼に頂きましたね。お餅につけて食べる納豆。豆を腐敗状態にして、そしてそれをむしろ。そしてよい香りにして、そしておいしい、しかも粘りのあるねのを作って行くのが納豆でしょう。皆さん納豆の作り方と言うものを知っとられるでしょうね。まあこれは言うならば豆をね。腐敗状態にする。これはまあ豆と言う事は壮健で健康でと言うか、健康と言う事もありましょうけれどもね。
 心の中に難儀を難儀と、困った困ったと言う様な頂き方は、あれは心が不健全だからですよ。信心によって心が健全になったら、有難い、いやあこれで又ひとつ徳が受けられる。もうどんな問題が来てもニャッと心の底で笑う様な心が生まれてくるですよ。
 修行と言う事が分かったら、神様がこんな修行を求められるのだから、この先もこれを受け抜いたらどう言うおかげになるぢゃろかと楽しうなってくるですよね。だから肉体の言うなら健康と言う事でもあると同時に心の不健康、まあ私は納豆と言うのは、そう言うふうに今日は感じたんです。
 どう言う場合であってもそれをじっと、それを金光大神、金光大神ともうおすがりさせて頂きながら、こうやってまあ、あれは何ち言うですかね。こうむしろかけたりなんかしてから、こうほめかせるわけですね。そうしていくうちにあの何とも言えん香りが出てくる、又はあのねばりと言うのが出てくる。
 信心は絶対ねばりの強い人でなからなきゃ、お徳は受けられんです。ね、ねばり強い人。貫くと言う精神。それもですね。今言う様に信心も上から下へ水を流すように容易い。下から上へ水を流すように難しい。そこん所のほんの頂き方ひとつなんです。
 言うならば苦労とか難儀とかと言う事をです。修行として受けられたら信心は容易いです。楽しいです。有難いです。私はこのまあ一か月間ですか、一か月間でしよう、修行は一月か間の間にその少しこうねばり一つ頂いてね。ねばり強う、そしてそこに納豆のような素晴らしい味のあるものを頂かせてもらわにやいかんです。この寒修行で一徳受けようね。と言う所で一心発起する所にですね。
 日頃は出けないでも、やはりこの寒修行の間だけは出けるね。本気で修行させてもらおうと思うからです。だから日々を本気で今日も修行させて頂こうと思うたらね。冷たい事も寒い事もね。言うならば喜びで受けられる。合掌して受けられる。元気な心で受けられるね。寒いと思ったけども寒くはない。冷たいと思うとったけども、冷たい思い。成程ちったあ冷たいけれども、そいが段々ぽっぽするごつなるでしょぅが、身体でも手の先でも。
 もう手が凍えて何にも握れんごつなっとっとがおかげの受けられん、苦労ば苦労と思うとるからつかめられんなおるとですよ、手が凍えとるから。これをもう一つ抜けていくと、今まで凍えとった手が自由にこうやって動くごつなるでしょうが。私はそうだと思うんです。お道で言う信心修行と言うのはね。皆さん今日修行はじめの今日。私が神様から皆やっぱ大きなおかげを頂きたいと思うでしょう。そんならね。修行を本気でなさらなけれは、墨が少ないから大きな字は書かれせんよ。
 大きな字を書きたいと思うなら、しっかり墨をすりためとかなきゃね。苦労ば墨に溜めたっちやいかん。その苦労を言うならば修行で受けられる信心。それを例えば寒修行なんかはね。もうこっちから、求めてひと苦労しようと言う心、だからこの心が生活の上にも頂けてくるようになるとね。
 成程修行、修行の後には必ず力がつきます。力がつくならね。おかげも必ずともなうのが金光様の御信心です。そして例えどう言う問題が皆さん例えば持っておられてもです。どう言うトラブルがまあ家族の中であってもです。それをトラブルとせずに修行として受けて行く時にですね。そいこそあの納豆のような香りやら、ねばりが出来てきてね。その困ったとか難儀とか思うておったその事のおかげで、この力が頂けた。こう言うおかげが頂けたと言う事になる。 そう言う体験を積んでいきよると、もうその人の前には難儀と言うものはない。あるのは神愛だけだ。よりおかげを下さろうとする働きだけしかないんだとこう分かった時にですね。いうなら、もう一生がね苦労のない。言うならば有難い、あるものは修行だけだとね。修行には必ず力が伴う、おかげが伴う、だから楽しんです。
 皆さん各々でひとつ大きな筆に少しばかり墨汁をつけておるお知らせ。それから納豆の今日、頂いたお知らせを芯にしてまあ今日は聞いて頂いたわけですけれども、もい一遍皆さんよく吟味してね。ほんなこつそうだとひとつ分かったら、本気で楽しう修行が出けるようなひとつお繰り合わせを心の上に頂かなければならんと思いますね。「どうぞ」